ZAITEN2021年9月号

近現代史研究家・辻田真佐憲インタビュー

【全文掲載】辻田真佐憲インタビュー「『2ちゃんねる』ひろゆきの〝道徳〟を 甘受する『超空気支配社会』の大衆」

カテゴリ:インタビュー

辻田 真佐憲.jpg辻田真佐憲氏(編集部撮影)

 私はこれまで近現代史研究家として、歴史と政治、文化芸術の関係をテーマに本を書いてきましたが、6月に上梓した『超空気支配社会』(文春新書)は、初の評論集です。2014年の第2次安倍晋三政権から菅義偉政権に変わった21年現在まで、様々な媒体で発表した時評や現在進行形の社会批評をまとめたものです。


 表題である「超空気支配社会」とは、もはやSNSが〝リアルを忍ぶ仮の姿〟ではなくなった時代に、人々が空気の微妙な変化を読み、キャッチーな言動で衆目を集め、動員や自らの利益に繋げようとする中で、新たなプロパガンダや同調圧力が生み出されている現況を示しています。


 分かりやすい例が、ここ数年の「右」と「左」の対立です。本来、「保守」や「リベラル」といった思想の中には立ち位置の細やかな差異や濃淡があるはずですが、安倍政権下で「親アベ」と「反アベ」の二分化が蔓延したように、SNS上ではあまりにも雑にパッケージングされています。安倍氏が長期政権を握った結果、彼に対してどういう立場をとるかによって思想的立ち位置が決められ、社会が二分されるという仕組みです。これは安倍氏のキャラクターに依存した一次的な現象なのか、それともSNS時代の普遍的な現象なのか。検証にはまだ時間が必要ですが、首相を退いて1年近くが経ってもなお、安倍氏がコンテンツ力を維持している事実は重要です。


 最近も月刊『Hanada』の対談で、安倍氏が東京五輪について〈共産党に代表されるように、歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対しています〉などと発言、毎日新聞がこれを抜き出して報道すると、ツイッターでは凄まじい勢いで拡散されました。


 私は、現在の菅政権におけるSNS上の「反スガ」の動きは、安倍時代の「反アベ」運動のコピーに過ぎないと考えますが、結局、人々は安倍氏の〝亡霊〟を見ながら、一時の総理大臣に対する賛否をもって、いまだ「右」と「左」の〝リトマス紙〟にしようとしているのでしょう。それは、言論のクオリティや深度を問わない空虚なゲームでしかありません。


道徳を語る〝武器商人〟

 しかし、こうしたゲームに長けているのが、連続性に重心を置かず、瞬間的な立ち振る舞いをよしとする人たちです。匿名掲示板「2ちゃんねる」(現5ちゃんねる)創始者の西村博之氏(ひろゆき)はその典型例でしょう。ひろゆきは現在、ネットを中心に活躍し、若い世代から「論破王」などとして人気を得ているといいますが、昔からやってきたことを踏まえれば、それこそ「誹謗中傷を是とするネットメディアでカネを稼いだ人」と言われても仕方がない。


 ところが、そんなひろゆきが今や、メディアで堂々と「道徳」を語っています。つまり、"武器商人"が平和を説くような状況を、人々が受け入れているわけで、これをどう解釈すべきか。つまり、「今日言っていることと、明日言っていることが違っていても問題ない」「瞬間的に話題になれば、言い逃げであったとて構わない」「過去を顧みず、今、数字とカネを得られれば勝ちである」ということです。超空気支配社会の元で、そうした価値観が息づいているのは間違いありません。


 加えて、政治は社会の相関物ですから、当然この空気は政治の世界にも充満します。その最たる存在が、小池百合子都知事です。


 実際、4年前の衆院選を巡る「排除発言」を今、どれほどの人が意識しているでしょうか。ほんの1年前には、五輪について「中止も無観客での開催もあり得ない」と公言していましたが、いつの間にか忘れ去られたかのようになっており、小池氏はそんな社会の空気を鋭敏に察知します。それは、「いかに目の前の勝利を得られるか」だけが関心事だからです。ゆえに、私から見れば、小池氏とひろゆきは同じカテゴリに属します。「過去は存在しない」と考えるタイプのニヒリスト。別の表現をとれば「近代的自我の喪失者」と言えるかもしれません。


SNSに群がる大衆


 近代的自我は、個人が自己の行いを省みることで成立します。例えば、日記をつけて省察する形で、「私」という存在を見つめ、自分が何かしら大きな歴史の一部を紡いでいると自覚する。つまり、過去と現在の「私」が断絶したり、矛盾するのは好ましくないという考えが近代的自我の基礎です。


 ところが、これがポストモダン的になると、過去からの一貫性は大きな問題ではなくなります。ツイッターに代表されるSNSでは、発言の一貫性より瞬発力が求められる。かつて「スキゾ」と表現された状態です。ポストモダン理論では肯定的に語られたりもしたものの、結局、SNS社会で顕現したそれは、極論とポジショントークとフェイクで分断される言論空間の惨状そのものでした。


 もっとも、「SNSはバカの吹き溜まりだから相手にすべきでない」と考える向きもあるでしょう。ニーチェの「畜群」やオルテガの「大衆」を引くまでもなく、もとより大衆社会論にはある種の衆愚的な考えがつきものです。現にSNSは社会と分割できないくらいには大きな影響力を有しており、否定論は現実的な回答ではありません。では、呑み込まれないためにどうすればよいか。


 私が繰り返し提唱しているのが、「総合」を求め、「中間」を目指すことです。「それは単なる日和見主義ではないか」という批判に問い返したいのは、「ならば過激に走ればいいのか」ということです。そうして行き着いた先のどん詰まりを、私たちは安倍政権の7年8カ月で経験したのではなかったでしょうか。いい歳をした大人がツイッターでクラスタ化ないしカルト化し、穏健な一般層からドン引きされるのが好ましいと言えるでしょうか。


 悪しき相対主義の擁護ではありません。誰にでも信条の偏りはあります。重要なのは、「私は真ん中だ」と自称することではなく、自分がいる地点を俯瞰し、よりまともな「中間」を志向し続けること。空気の支配に抗うには、その無限の運動が必要なのです。

◆プロフィール◆
つじた・まさのり―1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。現在、政治と文化芸術の関係を主な執筆テーマとしている。著書に『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。




購読のお申し込みはこちら 情報のご提供はこちら
関連記事

【著者インタビュー】「池田大作と創価学会」

鈴木宣弘 脱・「今だけ、金だけ、自分だけ」

特ダネ記者「放言座談会」

佐高信 vs. 森 達也「傍観を続けるメディアに存在価値なし」

西野智彦「アベノミクスの熱狂は幻想だった―金融政策への過大評価から目覚めよ」

深田萌絵「光と影のTSMC誘致―台湾で隠蔽される健康被害」

【著者インタビュー】「台湾有事 日本の選択」

特ダネ記者「放言座談会」

【特集】「歴史は繰り返すJAL・JAS統合の怨念史」

佐高信 vs. 藤井 聡「今こそ〝財務省タブー〟に斬り込む時だ」