ZAITEN2024年01月号

【対談】佐高信の賛否両論

佐高信 vs. 鎌田慧「危険地帯に赴くのがジャーナリストの仕事」

カテゴリ:インタビュー

かまた・さとし 1938年青森県生まれ。新聞、雑誌記者を経て、ルポルタージュ作家に。原発、開発、冤罪、労働、沖縄、教育など、社会問題全般を取材、執筆。それらの運動に深く関わっている。主な著書に『新装増補版 自動車絶望工場』(講談社文庫)、『狭山事件の真実』(岩波現代文庫)、『反骨 鈴木東民の生涯』(新田次郎賞、講談社文庫)、『屠場』(岩波新書)、『六ヶ所村の記録』(毎日出版文化賞、岩波現代文庫)、『残夢 大逆事件を生き抜いた坂本清馬の生涯』(講談社文庫)など多数。

佐高:
鎌田さんは私より7つ年上で、2023年で85歳ですが、イスラエル大使館周辺での停戦のための抗議デモも鎌田さんが先頭に立って呼び掛けて2000人近くが集まりましたね。

鎌田:組織動員も何にもなくて、2000人集まりましたね。これは佐高さんなどのご協力があるからできたのであって、私は老残をさらしてやっているだけです。

佐高:そんなことないですよ。鎌田さんのおかげです。

鎌田:警察は1500人と発表していましたね。警察は実際より3割以上減らした数を発表して、左翼は水増して発表しています。だから両方とも「嘘」なんです。

佐高:鎌田さんはルポライターを名乗っていますが、最初の仕事は『鉄鋼新聞』ですか?

鎌田:大学卒業後、鉄鋼新聞に入社しました。当時は「鉄は国家なり」と盛んに言われ、八幡製鉄など鉄鋼関連に活気があり、左翼の青年たちに強い影響を与えました。  

 私の1期上だった北九州出身の小説家、佐木隆三も高卒で八幡製鉄の総務に関わる仕事をしていましたが、文筆が立つということで広報に引っ張られて広報課に移っていました。佐木隆三は鉄鋼のことを書きたい気持ちがあって、八幡製鉄に入ったのだと思います。  

 私は鉄鋼のことを勉強できると思ったので、鉄鋼新聞に入りました。結果として、八幡製鉄と釜石製鉄をテーマにした本をそれぞれ執筆したので、目的は達成しました。

佐高:鎌田さんは高卒で働いた後に大学に入り直したのですか?

鎌田:はい。高校卒業後、上京して町工場へ就職しました。それを2カ月でやめて、ガリ版印刷の仕事をしていたら労働争議になって75日間籠城しました。組合で玄関ガラス戸を破って会社の中に入って、文字通り籠城し、支援カンパとか他の労働者も沢山来ましたよ。机の上に布団敷いてみんなが寝ました。そこから色々な組合の争議やストライキの応援に行ったりしました。

佐高:1929年の徳永直の小説『太陽のない街』の世界ですね。

鎌田:57年、58年は労働争議が頻発していた時代です。54年にあった近江絹糸争議の影響がかなりありました。私の争議は約2カ月半で一応和解し、会社は復活しましたが、私がいた印刷部門が分離されることになりました。  

 組合が印刷部門を自主経営して3年たったタイミングで大学に入るため会社は辞めました。それまで全然勉強したことがなかったので、11月ぐらいに会社を辞めた後の4カ月間、真剣に勉強しました。会社は一応辞めてはいましたが、昼は大学へ行き、ガリ版印刷はプロだったので、夜は同じところでアルバイトしました。大学で早稲田の「生協ニュース」の編集をやっていたこともあり、卒業して鉄鋼新聞に入りました。

ジャーナリズムは危険な所へ行く

佐高:鎌田さんのご活躍の中ではっとさせられたのは、雲仙普賢岳の事故で鎌田さんが立ち入り禁止区域へ入っていったことです。

鎌田:『FRIDAY』の取材で行きました。私は1日遅れて行ったのですが、先に現地に着いていた編集者とカメラマンに「鎌田さん、中に入れないんですよ」と言われました。2人に「入れないわけないだろ。じゃあ、明朝5時起きて取材だ」と言って、機動隊がいない時間に入りました。それがFRIDAYに載りました。

.....続きはZAITEN1月号で。

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